52 浦賀奉行所跡 ~横須賀風物百選~
2021年7月。
浦賀奉行所跡は、浦賀に何十年も住みながら一度も(忘れただけで小学校とかの社会見学で来たりしたかも)行ったことがなかった。てっきり海沿いにある公園のことかと思っていたが、ちょっと入った所にあった。
京急浦賀駅から歩くと2㎞程の距離がある。久里浜駅からも遠いので、どちらかの駅から京急バスに乗って「紺屋町」で降りるといい。タイミングが合えば、千代ケ崎経由の「西浦賀四丁目」が一番近い。浦賀駅から歩けば、浦賀ドックや西叶神社、ポンポン船なんかを見る事ができるのでモノ好きな方には徒歩がおすすめ。
たまたま、「横須賀風物百選」本の挿絵になっていたのと同じ構図で写真を撮っていた。
草ボーボーになっているが、手前の柵と奥の柵の間には石垣と側溝が遺り、往時の防衛思想をしのぶことができる。
浦賀奉行所は、江戸時代の真ん中あたりに下田(静岡の伊豆の先端)から移転された。表向きは下田の湊の不便さとしているが、奉行所跡の案内板によると、江戸の平和な時代が100年以上続き、農業を中心に国内の生産力が上がり、江戸へは様々な物資が届くようになった。物資の輸送方法は、なんと98%までが海上輸送であり、自然、江戸からより近く、使い勝手の良い浦賀の湊が船の積み荷や乗組員を管理する新奉行所に選ばれた、というわけだ。
浦賀奉行所は、いわゆる「船改め」だけでなく、現在の税務署、裁判所、警察署、海上保安庁といった行政も行っており、開設100年頃から来航するようになった異国船から首都を防衛する最前線基地の役割をも担うようになった。
実は、ペリー来航以前に、すでに7回も異国船が来航しており、浦賀奉行所に初めて来航したのはイギリスで、なんとペリーの45年前のことであった。そう、ペリーがいきなり大砲を持って来航したわけではないのだ。「幕末」はペリー以前からすでに始まっており、異国船が複数回にわたり来航していたという事実は、そのまま幕府滅亡の理由と「≒」になっていると言って過言ではない。
往時の正面玄関に当たる表門は、役宅より少し北に寄っている。また、町屋から役宅に入る部分も鍵の手に曲がっている(今度写真撮りに行って追加しようかな)。敵がまっすぐ攻め寄せられず、勢いを削ぐのが目的の、基本的な防衛の仕掛けである。
「横須賀風物百選」本によると、表門の石橋は、14枚の伊豆石が敷かれているという。横須賀市の奉行所紹介ページでは2019年時点で4~5枚とされている。私が現地で目視した感じ、9枚くらいはありそうだけど全部が当時のものかは(素人なので)判別できなかった。
3歳息子と自転車で奉行所跡をうろうろしてみる。立派な奉行所跡の説明看板をはじめ、浦賀を代表する人物・中島三郎助の説明版や先の石橋についての案内板など、色々と勉強になった。一周してみようとチャリンコ走らせたが、途中から民家の並びになってしまい断念した。
参考文献
「横須賀風物百選」
浦賀奉行所跡近辺にある説明看板
横須賀市のホームページ
自分の記憶