53 燈明堂跡 ~横須賀風物百選~
2021年7月。
浦賀奉行所(前の記事参照)を巡ったNextは、燈明堂へ向かう。
公共交通機関で行くなら、バス停「燈明堂入口」から徒歩10分くらいで行くことができる。
車の場合、燈明堂至近の「燈明堂緑地駐車場」がけっこう広く、駐車料金も最初の30分が無料だったり便利だが、いかんせん道路が狭くすれ違いができない区間がほどんどだ。閑散期なら問題ないが、特に絶対やめておいた方がいいのが夏場。多くの車が海水浴に押し寄せ、押すも引くもできない完全に詰んだ状態になってしまったりする。
私が子供の頃は、ほとんど知られていない浜辺だったので、徒歩数分の友達の家を拠点にして泳ぎに来て、飽きたらプレステをしに家に戻ったり、実家の近くに住む仲間たちと海パンにTシャツ姿で自転車に乗ってやってきて、海岸に落ちてる流木に火をつけて、これもそこらへんで拾った鉄板で得体のしれない貝を焼いて食べてみたりしたもんだけど、今やすっかり「人気の穴場スポット」になってしまったらしい。
さて、本題の燈明堂についてだけど、「横須賀風物百選」本によると、燈明堂が在する「燈明の鼻は浦賀に残存する唯一の磯浜である」という。慶安元(1648)年に建てられた燈明堂は明治5(1872)年まで約220年以上も稼働し、4海里7.4㎞を照らし続けたが、その後忘れ去られ、明治20年代には崩壊したと伝えられている。
横須賀風物百選が選ばれた昭和52(1977)年の時点では、燈明堂は土台の石垣を遺すのみの遺構だったため、本でも在りし日の和式灯台を偲ぶ情感のこもった味わい深い項となっている。
時は流れている。昭和63(1988)年、燈明堂は外観復元事業に着手され、平成元(1989)年3月に竣工された。
今、ふと思うことがあって、父が整理したフィルム写真の取り込みデータを紐解いてみたら、やはりというか、驚いたことに私が浦賀にやってきたのは、まさに復元燈明堂竣工と同じ時期であった。
歴史的には何でもない偶然の符号でも、自分や自分の家族がたまたまそういう時期に浦賀に引っ越して来たというのは、自分史にとってはニヤリとしてしまう面白い出来事であるといえよう。最近、人生でこういうことがあるとたまらなく可笑しいのは、やはり年を取ったからであろうか。
そんなことにも気付かずにこの日、夏の暑さの浦賀の中で親父となった私と三歳の息子が磯浜にたたずんでいる。宇宙、ということを考えたときに、こんなちっぽけな事象はなんでもないが、だからこそ、私は宇宙などという、ほとんど無意味なほど巨大な意味不明に対し抗いうる価値があるのではないかと思ってしまったりもする。
ところで燈明堂については、幼少時はあまり近寄らなかった。というのは、割と有名な話だけどここは江戸期において「首切り場」だったと言われていたからだ。子供心に十分不気味な呼び名であった。
実は浦賀奉行所としては、死刑をすることは無かったというが、例えば船乗りの罪人の処断を請け負ったらしい資料があるらしく、多くはないがやはり本当にこの地は処刑場であったことは間違いないらしい。
燈明堂緑地に入ってすぐ、三つの石碑が海を眺めている。左から、千代岬瘞骨志碑(ちよがさきえいこつしひ)。浦賀奉行・浅野中務少輔長祚(ながのり)が千代ケ崎台場を建設しているときに出土した人骨を供養するために建立。真ん中の明号碑(題目供養塔)と右の地蔵尊像は、共に天保11(1840)年に建立されている。受刑者の供養のためとも、海難者の供養のためとも伝えられている。
お昼前。朝の残る燈明堂を後にし、浦賀港をのぞみながら家に帰った。
参考文献
「横須賀風物百選」
燈明堂近辺にある説明看板
横須賀市のホームページ
自分の記憶