57 夫婦橋風景 ~横須賀風物百選~
夫婦橋で思い出すのは、横須賀市立工業高校…市工へ自転車で通っていた頃のことだ。登校の時、ほとんど毎日この橋の南側を通り過ぎ、下校の時も同じか、あるいは渡って西浦賀を経て実家へ帰っていたりした。
雨の日は悲惨だったが、晴れの日の朝は朝日を真っ正面に浴びながら学校へ向かう。部活が終わった帰りは、夕日に向かって帰っていく。色気のない、情緒もくそもない学生生活だったが、この毎日の繰り返しは好きだった。
2021年8月。
いまさら面映ゆい心持ちもありながら、横須賀風物百選めぐりの一環として、息子と自転車で赴いた。夫婦橋「風景」を想うと、人も車も、それぞれの想いをもってこの橋を渡っているのではないかと空想を広げてしまう。
自分自身、久里浜で友達と飲み明かして帰るときヘロヘロで渡ったり、友人を自転車に乗せて下校したり、女の子を乗せたエピソードが出てこないのが、わが青春の貧しさを示唆していて悲しいが、とにかくこの橋はそもそも南北は久里浜と浦賀を、東西は衣笠と港を結ぶ交通の要衝と云え、往来の彩は昔も今もあざやかである。
アクセスは京急またはJR久里浜駅から7分ほど。あえてバスに乗って夫婦橋バス停で降りるのも乙かもしれない。割と、そう、普通の風景が広がっている。
夫婦橋の歴史に触れたい。2021(令和3)年3月に、夫婦橋の袂に「久里浜の歴史を知ろう(夫婦橋の由来)」という看板が新たに設置されたので、そちらを参考に語りたい。蛇足だが、通常、めおとばし、と読む。ときおり、みょうとばし、としている資料もある。
そもそも「久里浜は江戸時代まで森崎や公郷、池田、吉井、衣笠まである大きな入り江で」、一面葦の湿地帯だった。今でも地名として残っている内川新田とは、1660年頃に砂村新左衛門という人が田畑を切り開いたことからその名がついている。
ちょっと意外だったのは、この橋の下を粛々と流れている平作川が、かつては暴れ川として幾度もその新田を押し流して稲の実ることも能わざりし厳しさを見せていたという事実だ。架けた橋もすぐに流され、美しい娘を人柱にしたという伝説さえ遺し、手を尽くし8年。新田開発はようやく軌道に乗った。
夫婦橋の傍らに置かれている内川新田開発記念碑の説明板によると、まず360石の成果が得られ、その後さらに255石の増加もあり、横須賀市内で最大の新田工事であったことが記されている。
新田開発における夫婦橋の役割は、海水の逆流を防ぐ水門としての役割が大きかったという。川の中央に中州を作り、その上を人が行き来できるように橋を二つ架け、その姿が夫婦のようであったことから、「夫婦橋」とよばれるようになったのである。
丸太で組まれ、土砂を敷き詰めた元祖夫婦橋は、現在の人道橋のあたりに架けられており、ひとつの橋の長さが約30m、幅は2.4mであったと、1825年頃の記録に残っている。その橋も、関東大震災で中州が壊れ破損。現在の夫婦橋は、1996(平成8)年に架け替えられたものである(知らなかったぁ!)。
「横須賀風物百選」本には、「今でも集中豪雨で被害を齎す川である」と進藤一考(俳人)氏により語られているが、私の知る限り平作川が氾濫したという話を聞いたことがない。
市政70周年(昭和52(1977)年)に横須賀風物百選を選定した時期以降に、氾濫への対策が進んだようで、調べたところ、1981(昭和56)年の台風24号では中流部に激甚な被害をもたらしたが、1985(昭和60)には10年間8000万円をこえる事業が完了し、以降大きな氾濫は無い。
平作川の歴史を紐解くのも楽しいが、この項の趣旨からは脱線する。読み手の飽きが来るとされる1500文字も超えたし、このあたりでやめておこうと思う。ひとつ、平作川について、進藤氏の語る情景は現在とは異なるようで、子供の頃からさっきまで、ずっと色気のない川だなぁと内心思っていたが、水害を防ぐための大いなる労苦の歴史を知るに至り、先人に感謝し、この項を閉めたいと思う(偉そうですみません。ありがとうございます)。
参考文献
「横須賀風物百選」
夫婦橋近辺にある説明看板
横須賀市のホームページ
自分の記憶