浦賀人が、吉井に棲む。

神奈川県横須賀市!ペリー来航の地より。

38 馬門山墓地 ~横須賀風物百選~

2021年8月29日(日)16時前。

坂本龍子のお墓向井正方夫婦のお墓を巡り、この日さいごは馬門山墓地へ来た。故人に失礼ながら、自宅から午後に横須賀風物百選を巡るのに行きやすかったからで、たまたまお墓参りという風になっていた。

キタクリにこんな場所があったとは!

京急新大津駅北久里浜駅の間くらいにあり、車通りもにぎやかな国道134号線から小みちを一本入っただけでこの静けさだ。エンジン音も遠く、セミの鳴き声だけがそれさえも遠巻きに感じるように響いている(気がした)。

夏の終わりにセミの抜け殻

現地の案内板によると、馬門山墓地 横須賀海軍墓地は、明治15(1882)年に当時の海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設した。1592柱が英霊として祀られていて、終戦までは新式と仏式を交互に式典が行われていたという。

開門は8:30~17:00。お盆などは早まったりする。

現在は海軍そのものが無くなっているから、横須賀市の管理となっている。門前には、旧石積みに使用されていた佐島石が一部残されている。佐島石は、横須賀の西海岸・佐島の採石場で採れる石のことらしい。

馬門山は、まもんざん、と読むみたい。

ちょっとした坂を登り、眺め歩いてみると、多くの墓石が立ち並んでいた。埋葬面積は階級によって6段階に分かれていたという。墓地は丘陵の地形に沿って三段に分けられていて、下段、中段は兵士たち、上段には供養塔が7基と士官たちの墓石が建っている。

上段にはさまざまな慰霊碑が建っている。

上段は広々としたお城の本丸然とした場所で、長男当時3歳は喜んであちこち走り回っていた。自転車の後部座席に乗り飽きてもいたのだろう。

日が西に傾き始めた。残暑の馬門山墓地。

立ち並ぶ大きな石碑。そのすべてを解説するのは難しいし私の「旅」の主題(変なこだわり?)からは外れるので一つだけ印象に残ったものを紹介したい(なんで偉そうな文になっちゃうんだろう。気を悪くしたらごめんなさい)。

支那事変大東亜戦争戦没者の忠霊塔(写真右)

支那事変大東亜戦争戦没者の忠霊塔。

現代に運ばれなかった語が並んでいる。そして、日付も皇紀で2597・7・7、2605・8・15と刻まれているのだ。これは、現代でいう1937年7月7日の盧溝橋事件(日中戦争の引き金となった)から、1945年8月15日の太平洋戦争終結までを意味する。

支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔に刻まれる皇紀

横須賀風物百選の案内看板には、建立は昭和28(1953)年9月となっているが、碑の裏面の由来記には昭和21(1948)6月、建立が同8月15日と刻まれている。

 

碑文には、勝手ながら現代語にすると

「日本の未曽有の危機に際し、祖国のため勇敢に戦地に赴き戦死、あるいは殉職、または病魔に倒れ帰らぬ人となった旧横須賀鎮守府管轄の英霊の忠誠を記念し、永遠にその遺烈を語り伝えるため、ここに忠霊碑を建立す。」

と刻まれている。遺烈とは、後世に残した功績のことだ。

横須賀を見守る英霊たち。

恐らくだけど、連合国の占領下である日本ではこういった理念は厳しく統制されていたのであろう。昭和21年の建立の起草から5年後のサンフランシスコ講和条約で正式に戦争が終結し、日本が「独立」した後に、起草者たちは当時の理念を忘れず、また忘れないために、この石に刻んだのだ。

馬門山のまつぼっくり

「パパ、パパ、まつぼっくり!」

ふと我に返ると息子が拾ってきた松ぼっくりを屈託なく見せてきた。虫がいるから持って帰らないぞーなどと言いながら、結局持ち帰ってしばらく家の庭に放られていた。

カマキリは戦闘態勢。

今ある平和は、当たり前のものじゃなかった。うっかり忘れてしまうけど、私たちは先人の累々たる屍の上にようやく成り立っているのだった。知らない誰かからもたらされたものではなく、大昔からのおじいちゃんやおばあちゃんからの贈り物なのだ。

 

とても、遥かに先人の努力や苦難、英知には遠く及ばないけれど、後世に生きる私も、せめて子どもたちの幸せを願い、生きていきたいと思うのであった。

 

 

参考文献

「横須賀風物百選」

馬門山墓地にある説明看板

横須賀市のホームページ