浦賀人が、吉井に棲む。

神奈川県横須賀市!ペリー来航の地より。

【もくじ】横須賀風物百選

横須賀風物百選を巡る旅。

その目次!目指せ百選制覇!!

 

1  鷹取山と磨崖仏

2  夏島貝塚

3  明治憲法起草地記念碑

4  追浜工業団地

5  海軍航空隊発祥地記念碑

6  官修墓地

7  榎戸湊

8  田浦梅林

9  常光寺のしだれ桜

10 長浦港

11 トンネルの風景

12 泉町の奥谷

13 新井の掘割

14 谷戸風景

15 三浦按針夫婦墓

16 海上自衛隊

17 国鉄横須賀駅

18 横須賀港と臨海公園

19 米軍横須賀基地

20 どぶ板通り

21 中央商店街

22 平坂

23 横須賀新港

24 記念館三笠

25 猿島

26 諏訪神社

27 みなとまつり

28 納涼花火大会

29 安浦港

30 赤門

31 龍本寺

32 中央公園

33 文化会館と周辺

34 不入斗運動公園

35 向井正方夫妻墓

36 馬堀海岸団地

37 坂本龍子の墓

38 馬門山墓地

39 走水神社

40 水道水源地

41 御所ヶ崎

42 防衛大学校

43 観音崎燈台

44 観音崎公園

45 鴨居港

46 とっぴきぴー踊

47 東叶神社

48 浦賀港と渡船

49 西叶神社

50 咸臨丸出港の碑

51 浦賀造船所

52 浦賀奉行所跡

53 燈明堂跡

54 虎踊

55 西浦賀の家なみ

56 横須賀火力発電所

57 夫婦橋風景

58 怒田城址

59 市の木おおしまざくら

60 ペリー上陸記念碑

61 久里港

62 佐原十郎義連墓

63 満願寺の諸仏

64 国立特殊教育総合研究所

65 北下浦海岸

66 だいこん畑

67 地引網

68 おんべ焼き

69 西瓜畑

70 みかん園

71 浦賀

72 曹源寺

73 衣笠山公園

74 衣笠商店街

75 大明寺

76 衣笠城址

77 三浦大介義明廟所

78 三浦氏三代の墓

79 清雲寺滝見観音

80 電気通信研究所

81 武山初不動

82 陸上自衛隊

83 のりひび

84 長井港

85 飴屋踊

86 荒崎海岸

87 虫山の池

88 佐島の船祭

89 佐島港

90 市の花 北限のはまゆう

91 天神島と笠島

92 淡島神社の祭礼

93 十二所神社

94 大楠山

95 浄楽寺阿弥陀三尊像

96 立石

97 久留和海岸

98 子安の炭焼

99 庚申塔

100ハイキングの道

 

2023.06.06 目次作成!まだまだ9項目先は長い。。

38 馬門山墓地 ~横須賀風物百選~

2021年8月29日(日)16時前。

坂本龍子のお墓向井正方夫婦のお墓を巡り、この日さいごは馬門山墓地へ来た。故人に失礼ながら、自宅から午後に横須賀風物百選を巡るのに行きやすかったからで、たまたまお墓参りという風になっていた。

キタクリにこんな場所があったとは!

京急新大津駅北久里浜駅の間くらいにあり、車通りもにぎやかな国道134号線から小みちを一本入っただけでこの静けさだ。エンジン音も遠く、セミの鳴き声だけがそれさえも遠巻きに感じるように響いている(気がした)。

夏の終わりにセミの抜け殻

現地の案内板によると、馬門山墓地 横須賀海軍墓地は、明治15(1882)年に当時の海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設した。1592柱が英霊として祀られていて、終戦までは新式と仏式を交互に式典が行われていたという。

開門は8:30~17:00。お盆などは早まったりする。

現在は海軍そのものが無くなっているから、横須賀市の管理となっている。門前には、旧石積みに使用されていた佐島石が一部残されている。佐島石は、横須賀の西海岸・佐島の採石場で採れる石のことらしい。

馬門山は、まもんざん、と読むみたい。

ちょっとした坂を登り、眺め歩いてみると、多くの墓石が立ち並んでいた。埋葬面積は階級によって6段階に分かれていたという。墓地は丘陵の地形に沿って三段に分けられていて、下段、中段は兵士たち、上段には供養塔が7基と士官たちの墓石が建っている。

上段にはさまざまな慰霊碑が建っている。

上段は広々としたお城の本丸然とした場所で、長男当時3歳は喜んであちこち走り回っていた。自転車の後部座席に乗り飽きてもいたのだろう。

日が西に傾き始めた。残暑の馬門山墓地。

立ち並ぶ大きな石碑。そのすべてを解説するのは難しいし私の「旅」の主題(変なこだわり?)からは外れるので一つだけ印象に残ったものを紹介したい(なんで偉そうな文になっちゃうんだろう。気を悪くしたらごめんなさい)。

支那事変大東亜戦争戦没者の忠霊塔(写真右)

支那事変大東亜戦争戦没者の忠霊塔。

現代に運ばれなかった語が並んでいる。そして、日付も皇紀で2597・7・7、2605・8・15と刻まれているのだ。これは、現代でいう1937年7月7日の盧溝橋事件(日中戦争の引き金となった)から、1945年8月15日の太平洋戦争終結までを意味する。

支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔に刻まれる皇紀

横須賀風物百選の案内看板には、建立は昭和28(1953)年9月となっているが、碑の裏面の由来記には昭和21(1948)6月、建立が同8月15日と刻まれている。

 

碑文には、勝手ながら現代語にすると

「日本の未曽有の危機に際し、祖国のため勇敢に戦地に赴き戦死、あるいは殉職、または病魔に倒れ帰らぬ人となった旧横須賀鎮守府管轄の英霊の忠誠を記念し、永遠にその遺烈を語り伝えるため、ここに忠霊碑を建立す。」

と刻まれている。遺烈とは、後世に残した功績のことだ。

横須賀を見守る英霊たち。

恐らくだけど、連合国の占領下である日本ではこういった理念は厳しく統制されていたのであろう。昭和21年の建立の起草から5年後のサンフランシスコ講和条約で正式に戦争が終結し、日本が「独立」した後に、起草者たちは当時の理念を忘れず、また忘れないために、この石に刻んだのだ。

馬門山のまつぼっくり

「パパ、パパ、まつぼっくり!」

ふと我に返ると息子が拾ってきた松ぼっくりを屈託なく見せてきた。虫がいるから持って帰らないぞーなどと言いながら、結局持ち帰ってしばらく家の庭に放られていた。

カマキリは戦闘態勢。

今ある平和は、当たり前のものじゃなかった。うっかり忘れてしまうけど、私たちは先人の累々たる屍の上にようやく成り立っているのだった。知らない誰かからもたらされたものではなく、大昔からのおじいちゃんやおばあちゃんからの贈り物なのだ。

 

とても、遥かに先人の努力や苦難、英知には遠く及ばないけれど、後世に生きる私も、せめて子どもたちの幸せを願い、生きていきたいと思うのであった。

 

 

参考文献

「横須賀風物百選」

馬門山墓地にある説明看板

横須賀市のホームページ

35 向井正方夫婦墓 ~横須賀風物百選~

2021年8月29日(日)15時前。

坂本龍子の墓をお参りして、こんどは向井正方夫婦のお墓を目指す。

お墓というのでお寺なのかと思っていたら、まさかの住宅が立ち並ぶ坂の上だった。やけにきれいな建物を造っているなと思って後で調べたら、名前だけは聞いたことがある「ぎんなん幼稚園」の新園舎だということがわかった。

ぎんなん幼稚園。2022年に和モダンな新園舎が竣工した。

東京湾に浮かぶ猿島を眺める景色のいい所に、向井正方夫婦の墓はある、ぽっかりとある。まるでそこだけ歴史の流れからあえて踏みとどまるようにして。

 

これも後から調べて、というか実際にこの近辺を電動アシスト機能付きママチャリで当時3歳の息子とうろついて得た印象をもとにグーグルマップを眺めて思ったのだが、かつてこのあたりは坂本龍子の墓の信楽寺、ぎんなん幼稚園を運営する信誠寺、そして向井正方夫婦が眠る貞昌寺といったお寺が林立する区域だったのかもしれない。

閑静なる住宅街にたたずんでいた。

さて、向井正方という人のことだけど、私は全く存じ上げず、この稿を起こしながら勉強をした。現地の案内板などで知りえたことなどを書き連ねると、通称は左近将監。元和7(1621)年というから大坂夏の陣で豊臣家が徳川家康によって滅ぼされてから6年ほど、天下治まりといえども未だ戦国の余風が残る時代に生を受けた人のようだ。

せっかくなので様々な角度から眺めてみる。

墓碑にも刻まれている通り、向井左近将監源忠勝の五男であり、ご先祖様は南朝水軍で名を馳せた人だったという。戦国時代にあっては、今川義元に仕え、それが滅びると武田信玄の水軍として、また滅びてしまうと徳川水軍として招かれ、名を挙げて正方へ至っている。筋金入りの水軍一族といえる。

横須賀風物百選の本の挿絵の角度を狙う。

向井将監正方はというと、5男であったが早世または改易された兄たちに変わり家督を継いで、三浦郡(かつては横須賀、三浦、逗子はこう呼ばれた)の一部1000石の知行を与えられ、伊豆、三浦の海防を担い、やがて加増され2000石となり、大津、森崎、小矢部、金谷、池上、不入斗の諸村を拝領した。

 

横須賀風物百選の本では、草深そうな貞昌寺の裏山に妻の墓碑とともに挿絵が描かれている。「江戸の見えるところに」墓を、との正方の遺言に従い裏山の山腹に建てられた夫婦の墓碑は、平成の宅地造成のため20m程度移築されたらしいが、最初に述べた通り江戸を見渡せる良い景観の場所である。

 

夫婦墓なので、奥さんのことにも触れたいのだが、亡くなった日や服部冬次(誰?)の娘であることくらいしかわからず、語れる材料に乏しい。服部といえば忍者として著名かなぁと思うこと、向(向井)氏の発祥が伊勢・伊賀近辺の人(海賊)で、これも印象は忍者である。

 

どこかそういう似通った境遇の繋がりも見える気がするし、微笑ましいのは夫婦揃って江戸を幾星霜眺め続けている(ある種すさまじい)長閑さが、この横須賀風物百選としてふさわしいような感じもする。

 

参考文献

「横須賀風物百選」

夫婦墓近辺にある説明看板

横須賀市のホームページ

37 坂本龍子の墓 ~横須賀風物百選~

2021年8月29日(日)お昼過ぎ。

巡ってから2年近くたってしまったけど、夏が過ぎるのを惜しむような暑さは覚えている。長男当時3歳。自転車に乗せて父の趣味に付き合うの巻。

京急大津。この近辺を散歩するのは初めて。

京急大津は、始発駅の浦賀から馬堀海岸を経て3つ目の駅。近いがゆえにこの駅で降りることは稀だ(今回も自転車で来ている)。

 

この近くに坂本龍馬の奥さんのお墓があるというのはずいぶん前から聞き知っていたが、そもそもあまり興味を持っていなかったため、お参りすることもなかった。

 

龍馬の妻・坂本龍子さんのお墓参りをするなら、まずは通勤電車の中からもよく見える、「大津おりょうさん公園」に寄ってみようと思った。

駅改札を出るとすぐ目に入る。

龍馬とおりょうの恋文ポストが設置されている。幕末の英雄・坂本龍馬筆まめで知られていて、とてもユーモアのある文章が残っている。例えば、勝海舟の門人となり海軍で稽古をすることを報告する手紙で「えっへんえっへん<(`^´)>」と姉の乙女に自慢したりしていて、なかなかお茶目だ。

平成28年10月8日、湘南学院高等学校おりょうプロジェクトにて設置。

妻であるお龍さんにもラブレターを書いたかどうか。ともかく、令和の世に棲む我々も、慣れない手紙を茶目っ気たっぷりに書いてこのポストに投函するのも一興かもしれない。

 

「坂本龍子の墓」がある信楽寺は、道が枝葉のように分かれる住宅地の奥にたたずんでいるが、随所に案内があるしそこまで向かうのは大変ではない(のに幾度か迷った)。

京急大津駅から歩いても5分くらいだ。

浄土宗信楽(しんぎょう)寺は、永正元(1504)年の開山で、本尊は運慶の作と伝わる阿弥陀如来像である。行基の作である聖観音は、源氏の武将・熊谷直実の守護仏であったが、熊谷寺から近江(滋賀県)国大津の信楽寺へ移す予定が、使者が誤ってこちらの信楽寺へ納めちゃったというエピソードが伝えられている。

 

さて、横須賀風物百選・坂本龍子の墓は境内の割と見つけやすいところにあった。坂本龍馬の妻といったらどんな人なのかなぁ、と想像を巡らしたり、2回読んだ司馬遼太郎の名作「竜馬がゆく」からイメージしてみたりするのだが、お墓を前にするとどうも調子が狂うようで、なかなか思いが湧いてこない。

境内はいたって静謐。

墓石には、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。坂本龍馬は33歳の若さで非業の死を遂げるのだが、当然に龍子さんの人生はその後も続いている。龍子さんは龍馬亡き後坂本家へ身を寄せるが、どうやら関係性がうまくゆかなかったのか、坂本家を去り各地を流転している。

近江、大津、信楽。不思議な縁で龍子さんはここに眠る。

やがてこの横須賀へ流れ、今の米が浜通りの西村松兵衛へ嫁ぎ、「西村ツル」として30年近く暮らした。幕末から明治という激動の時代を生きた坂本龍子さん。龍馬からもらった手紙の数々は、「私だけの思い出」とし、すべて燃やしてしまい、現存するのは一通のみらしい。

享年66歳。龍馬のちょうど倍の年数を生き(いずれも数え年・・合ってるかな?)、その中で龍馬と過ごしたのは3年程度という。「坂本龍子の墓」でしばし祈る。浦賀を今一度選択いたし申し候(範囲狭っ)。

 

参考文献

「横須賀風物百選」

信楽寺にある説明看板

横須賀市のホームページ

30 赤門 ~横須賀風物百選~

2023年4月5日(水)は、朝から京急が事故で止まってしまい困り果ててしまった。

なんとか浦賀から堀ノ内へ出たのだが、再開の見込みは立たず、ホームは人でごった返していたので、思わず改札から逃げ出してしまった。

 

そういえば、京急線に沿ってくねくね延びている道が「うらが道」だったことを思い出し、とりあえず一駅、また一駅歩いてみることにした。

一本松・乗合馬車立場跡。今は三春町二丁目バス停が近くにある。

県立大学駅へむけ歩いていると、「一本松・乗合馬車立場跡」との標柱をみつけた。標柱の説明によると、ここにかつて大きな一本松があり、馬車や乗合自動車の発着所となっていたという。

安浦第2公園 うらが道

さらに少し進むと、「うらが道」の標柱があった。まんま引用すると、「この道は、江戸から金沢、田浦、逸見、汐入、深田、を経て浦賀へ至る昔の要路」だったと記されている。

 

堀ノ内から20分足らずで県立大学駅に着いたが、京急は未だ再開していないようなので、横須賀中央へ向かう。このまま会社まで歩いて行っちゃおうか。

 

県立大学駅から5分くらい。正徳寺坂の先に赤門が見えてきた。坂道を横切ろうとすると車がビュンビュン過ぎていくので、下道のトンネルから向かう。

赤門 唐突に出現する印象。

見てわかる通り、門は赤くない。この赤門は、いわゆる長屋門であり、三浦氏の子孫とされる永嶋家のものであった。永嶋氏は戦国時代には小田原北条氏の浜代官を務め、江戸時代には三浦郡の総名主を務めている。

赤門の名の通りかつては朱塗りだった。

今は見る影もないけど、明治ごろまでこのあたりは白砂青松の景勝地で、猿島はもとより、房総の低い山並みまで眺めることができたという。

 

島崎藤村の小説「夜明け前」には、この永嶋(永島)家が藤村の先祖であると書かれている。

赤門の傍らにある石柱。右 大津浦賀道 左 横須賀金沢道 とある。

なお、正徳寺坂を上った先は三崎街道が走っている。少し行くと日帰り温泉の「のぼり雲」がある。こちらも唐突にドカンと入口に佇む長屋門があり、赤門の永嶋家の親戚で、こちらの永島(永嶋)さんも名主階級の富裕な方だったらしい。

佐野天然温泉 湯処 のぼり雲にある黒門

三崎街道の長屋門は、うらが道の赤門に対して黒門と呼ばれている。いずれにしても、この地域での永島(永嶋)氏の威勢を忍ぶには十分立派な遺構である。

黒門。表札には永島の名が。

正徳寺坂についてもう一つ余談を。

坂のガード上を颯爽と過ぎてゆくのはもちろん京浜急行だ。我が家は妻が妊娠中に坂の上の後藤産婦人科にお世話になっていて(結局ここでは産めなかったのだが)、妻の診察を長男と待つ間によくここまで歩いてきて京急を眺めたのだ。

正徳寺坂の京急ビュースポット。

そして沿線の民家になぜかヤギやトリがいて、なんだかとっても和むのであった。

ヤギやトリたちが現れる。

話は4月5日に戻る。

横須賀中央までたどり着くと、ちょうど京急の運転見合わせが解除されたようで、一場の街道旅気分も解除され、ほとんど本能的に来た電車に乗って自動的に会社へ向かうのであった。

 

ちなみに、「浦賀道」も横須賀風物百選の一つである。浦賀道については、この横須賀風物百選をめぐる長く終わるかわからない取り組みを進める中で否応なく古道の息遣いを感じることができるだろうなと思う。それらを総評して紹介できるのは、多分まだかなり先のことになるのではないか。

 

参考文献

「横須賀風物百選」

赤門・黒門近辺にある説明看板

横須賀市のホームページ

自分の記憶

URAGA開国クルーズの特別版「咸臨丸クルーズ」

全然タイムリーじゃないけど、11月7日(日)に、URAGA開国クルーズの特別版「咸臨丸クルーズ」に行きました!家族3人で乗ってきましたよ~!

 

こういう期間限定イベントは開催直後の余韻と共にアップして盛り上げるものなんですが、まぁのんびり吉井に棲む浦賀人やってますので、気の向くままに揚げていきますよ☆

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URAGA開国クルーズ自体は、2022年1月23日(日)までやっとりますので、ぜひ気になった方は乗りに来てみてくんさい。ちなみに、どうでもいいんですが開始日の10月23日は私の誕生日でありました。

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ではでは、行ってきま~す!!

 

この咸臨丸は、世界最大のうずしおを観る事ができる鳴門海峡から来た観光船で、淡路島からやってきたのであります。観光船って、そんな長旅もできるのね、と思いながら船内でのアナウンスを楽しんでいると、息子4歳がちっち。

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良い場面を見逃したりしつつ、船は浦賀湾をゆく。勝手に狭い湾だと思っていたんだけど、こうやってお船から両岸を眺めてみると、存外立派な湾だし港だったんだなぁと、地元自虐あるあるに気付いたりするのでした。

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即座にアップしちゃわないデメリットで一番大きいのが、その時にリアルで聴いた浦賀トリビアが今や全然思い出せない!

 

世界で4ヶ所しか残っていないレンガドックのうち、日本だけで2ヶ所残っているらしい。そしてなんと、その2ヶ所はどちらも浦賀にあるんです。ひとつはもちろん浦賀ドックですね。そんで、もう一つは西浦賀のヴェラシスマリーナの中にある、川間ドック。すごい。浦賀って、世界じゃん!!!!

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川間。懐かしい響きですね。かつて、友人が川間に住んでいて、ちょっとしたおふざけで「うるせぇよ、川間!」とか、なんだか川間呼ばわりしていたのが懐かしみです。こっちはコモンシティだったので、「コモンに帰れよ」とかやり返されてました。

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燈明堂を海から眺めるのは初めてだなぁ。ちょっとした櫓みたいだ。ちょっと雲が出ちゃったけど、これはこれでいい感じかな。東京湾へ向かうと、鳥たちが船にやってきたりして、なかなか船旅感も出てきたところで、折り返しです。

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あっという間に港へ戻ってまいりまして、咸臨丸が来た淡路の名産をちょっと眺める。淡路といえば玉ねぎ。じつはわたくし玉ねぎ苦手でして、以前淡路島へ旅行した時、チャレンジで玉ねぎせんべいというものを買って食べてみて、それがまた淡路の玉ねぎの良いところをしっかり出した(生の玉ねぎな感じ)銘品で、きっと素晴らしいんだろうけど、わたくしはやっぱり苦手で両親が美味しく頂いたことを思い出しました。

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スープは美味しくいただきました♪

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楽しいクルーズ。500円って大分うれしい金額設定です。

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数日後、夜ウォーキングで西岸を歩いていると、ライトアップされた咸臨丸が!しばらく滞留していたのか、きらきらと夜の浦賀港を照らしていました。

 

千代ケ崎砲台跡のこともブログで書きたいなぁ(近日アップしたい予定!)

 

「浦賀・開国駅マルシェ」に行ってみた!

2021年11月6日と7日。

京急本線の終点、浦賀駅に貸切の電車内にて地産のマルシェが開催された。京急の車両がお店になるなんて、なんて楽しそうなんだ!と思い、更に初日に妻と息子がわたくしの仕事中に行ってみて、なかなかの評判だったので、息子は二日連続になるけど、案内役としてw、二人で行ってみた。

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横須賀や浦賀の野菜が売られ(わたくしが赴いた時…閉会直前にはほぼ売り切れていたけど)、京急プラレールや大きなトートバッグ(実は持っている♪)、果てはゴジラのソフビまで(浦賀駅の到着音はゴジゴジゴジゴジラ!)売られていて、閉会直前とはいえかなり楽しめるイベントだった。

 

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そこはかとない手作り感も良かった。

このラッピングトレイン「よこすかルートミュージアム号」も、2022年1月30日まで運行しているらしい。今のところ通勤中に見てないなぁ(11/15時点)。

 

横須賀の魅力を再発見する「よこすかルートミュージアム

その中でもペリー来航の地・浦賀に目を付けた「横須賀集客促進・魅力発信実行委員会」は素晴らしい慧眼だ!生まれてはいないけど長年暮らして育った浦賀にスポットが当たるのは嬉しいなぁ。

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しかも浦賀に出戻って半年くらいでこの盛り上がり!神に呼ばれたとしか思えないこの素晴らしいタイミング!まぁ、住所は吉井なんだけど。

 

ルートミュージアムの「MEGURU PROJECT」は浦賀を中心に展開される横須賀観光の新しい取り組み!

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感慨深くもあり、わが浦賀(独りよがり)が人目にさらされてしまう嫉妬心(?)あり、複雑ながら、浦賀の素晴らしさを多くの人に知ってもらえて、浦賀がもっともっと元気になるなら良いよね!

 

この後は咸臨丸で浦賀クルーズ!

時間のある時に更新します!全然タイムリーじゃなくてアレですが。。。