浦賀人が、吉井に棲む。

神奈川県横須賀市!ペリー来航の地より。

高校三年生の夏、就職活動の思い出

急に思い出してtweetでもしようかと思っていたら、ムラムラとあの日の記憶がよみがえってきたのでさぼり気味だったブログを興そうと思い立った。

 

高校三年生の夏といったら、今からなんと20年も昔の話になってしまったが、私は中学校の時から絶望的に成績が悪く、受験で行ける学校が工業高校くらいしかなかった。

 

横須賀市立工業高校という、今は無くなってしまった昭和の古き良き高校に通っていた。当時、2001年の頃は、就職氷河期時代で、工業高校は就職に有利な高校で、ふれこみでは求人票はたくさん来て、好きな所に行きやすい、要は売り手市場だった時代が長かったというが、その頃は一人一社を持つのがやっとの原則になっていた。

 

高校での成績は真ん中よりちょっと上くらいで、中学の時の悲惨な状況よりずっとましだったけど、それはまわりが勝手に成績を落としていっただけで、相変わらずうだつの上がらない学生だった。

 

就活の夏、某有名企業を第一希望にしたが、クラスでもトップに属する成績だった友人も希望していて、早々と諦めることにした。他に希望していた企業も、求人票とは名ばかりで、実態は募集とは言えないただの紙切れ同然のものだった。そういうことすらも見分けられないくらい、私は愚かな学生だったんだね。

 

今でもよく覚えている。西日が、まるで私を批判するように、教室の中に痛烈に差し込む7月、夏休みの直前だった。ちょうど今頃だったんじゃないかな。窮した私は担任の先生に相談して、いくつか別の求人を見繕ってもらった。

 

どんな会社が良いかなんて聞かれても、そんなビジョンがあるような学生ではなかったし、先生もそんな私を良く知っていたんだと思う。倒産しにくい会社を、探してくれたんだ。

 

ほかにも幾つか質問の受け答えがあった。家からある程度近いとか、そんな感じの幼い希望しか出せなかったと思う。先生は、2社、候補を挙げてくれた。どちらも交通インフラ系の会社で、どちらも現在に至るまで倒産していない。入社した会社は、入社以降赤字にすらなっていない。

 

先生は、決してここにしろとは言わなかった。あとは自分で考えろと、2社の求人票を渡され、西日の教室の時間は終わった。

 

親御さんにも相談しなと言われ、とりあえず学校から家へ電話して、それから自転車で家へ帰った。身から出た錆だからこそ、悔しかった。

 

父は、組合のある会社にしろというアドバイスだった。情報系の会社で組合が無く、サービス残業に散々苦労していたのは、高校生のガキから見ても理不尽で気の毒だった。

 

選んだ会社は、組合のある、一部上場の、交通インフラを生業とする倒産しにくい会社。ほとんど主体性のない就活になってしまったが、先生が2択としてくれたおかげで、せめて自分で選べたような気になれた。今思えば、あれも教育だったんだなぁ。

 

希望が決まってからは、あっけないくらいあっという間に内定が決まった。入社して19年の歳月が流れたが、会社はそんな私を結構用いてくれて、評価してくれている(んだと思う)。馬車馬のように、自衛消防隊や、育成訓練生の先生、技能検定の指導員など、本業以外にもたくさんの仕事をやらされているせてもらっている。

 

父のアドバイス通り組合のある会社を選んだわけだが、皮肉にも入社して組合員(ユニオンショップ制なので強制加入)になってこの方、青年部、職場委員、代議員、議長団、執行委員、選挙管理委員、審査委員、中央執行委員、支部副委員長などなど、組合の要職を歴任する羽目になっている。これも運命と思って苦心惨憺の日々を過ごしているわけだが、こうして必要とされるのも幸せなことなのかもしれない(と思わないとやってらんない)。

 

このコロナ禍においても、こうして新築の一軒家を買えて、家族を途方に暮れさせることもなく生活していられるのも、あの日、適切な進路指導をしてくれた先生と出会えたからだ。先生は身だしなみや生活態度に対して厳しく、怒ると柔道技を掛けられそうなど怖い九州男児だった。実際、若いころの武勇伝は枚挙にいとまがなかった。

 

先生は、卒業式の日、泣きながら私たちに厳しくしていた理由を話してくれた。それは、社会に出れば、もっともっと過酷で厳しい世界が待っている。だから私は君たちに厳しく当たり、時には理不尽なことも言った。君たちは、その試練を乗り越えたのだから、社会で出会う困難なんて、何でもないはずだ。

 

もうクラス全体が号泣。

とびっきりドライでいつでも退学してやるくらいの感じだった友人すら泣いていた。

 

大して努力もしないで、いや、努力しなかった結果入学した高校で、素晴らしい先生に出会えたのは、幸運以外の何物でもない。あの夏の日は自分にとって、今に続く大事な分岐点だった。いまいち自分の進路に真剣になれなかった私を、真剣に導いてくれる人がいた。

 

明日も、またちょっと頑張ってみようと思う。