浦賀人が、吉井に棲む。

神奈川県横須賀市!ペリー来航の地より。

日本100名城、制覇!!余韻をひとり夜語り

先日、ついに日本100名城を制覇することができました♪

 

2008年に駿府城を巡ったのが最初。もともと歴史小説が好きで、そのうち城めぐりでもしてみたいと思っていた20代の半ばだった。駿府城は100名城制覇の記念すべき1城目で、私が旅にのめり込む1城目にもなった。

 

あれから13年!夏に「根室半島チャシ跡群」を99城目にめぐり、ここでやっと初めて制覇が見えてきた。2012年に北海道を一周したとき(旅ブログ「しったかぶりの日本歴史旅」へ飛びます)、北海道の広さをなめすぎていて日暮れに根室に到着し、泣く泣く諦めた。この時点で残りは9城で、文句なしの最難関だった根室半島チャシ跡群を逃したのはあまりに痛く、再訪まで9年の歳月を要してしまった。

 

100城目は水戸城だった。水戸城はこの6月に二の丸角櫓の復元が完成し、大手門を含めた城郭の復元事業が完了。コロナ騒動の緊急事態宣言が明け、各施設も開館した10月の登城はベストタイミングだった。

 

おもえば長い旅路だった。それに、全部完璧に巡れたかというと、そうでもなく、朝早すぎて大書院が開城されていなかった篠山城、震災による被災で天守に登れなかった白河小峰城、目的の石碑にたどり着けなかった観音寺城など、まだまだ巡る余地を多く残している城もある。

 

また、登城後に大きな復元整備や発見があった城もある。金沢城は行く度に新しい櫓や門が復元されるし、弘前城は石垣修理で天守が曳家され、姫路城は平成の大修理が行われた。最近では犬山城で外堀が発見されるなど、城の歴史の謎はつねに解明され、アップデートされている。

 

とはいえ、多くの城ボーイ、城ガールによって、名城の語りつくされた感はどうしても否めない。ライターとして記事を書きたい時も、先輩記事が優秀すぎると内容がどうしても負けてる感があって、諦めたりもした。逆に天守から曲輪から城下町、グルメに至るまで巡れた時の記事は、自分なりに会心の記事が書けたりもする。

 

そんな中で一番こころに残る城めぐりは、実は公の場では一切触れられない部分だったりもする。地元の方とふれあう中で知り得た、通常のパンフレットやルートに載らない城めぐり(城に限らないけど)の裏ワザは、公的にはNGだったりもするからブログで公開することはない。こればっかりは、自身でめぐり、運が良ければ巡り合える自分だけのものだ。

 

あとは、例えば水戸城では朝めぐりの時に犬を散歩しているオヤジさんから瓦塀について教えてもらったり、こういう事があると城めぐりは三倍は楽しい。もしかして、地元の方に教わることがちょっと史実や公式資料と違う見解だとしても、そっちが正解かもしれないし、いろいろな考え方に出会って、自分なりに考察することも良い経験になる。

 

ともかく、ここで一区切りだ。ブログでも100名城紹介シリーズやりたいな。大変だけど(;'∀')

 

再訪したい城もあるし、続日本100名城も選定された。旅は少しも終わっていないのだ。次なる旅路を楽しみに、ひとまず!日本100名城制覇を喜びたい(^^♪

 

57 夫婦橋風景 ~横須賀風物百選~

夫婦橋で思い出すのは、横須賀市立工業高校…市工へ自転車で通っていた頃のことだ。登校の時、ほとんど毎日この橋の南側を通り過ぎ、下校の時も同じか、あるいは渡って西浦賀を経て実家へ帰っていたりした。

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夫婦橋人道橋から

雨の日は悲惨だったが、晴れの日の朝は朝日を真っ正面に浴びながら学校へ向かう。部活が終わった帰りは、夕日に向かって帰っていく。色気のない、情緒もくそもない学生生活だったが、この毎日の繰り返しは好きだった。

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西浦賀方面から。京急バスが颯爽と行く

2021年8月。

いまさら面映ゆい心持ちもありながら、横須賀風物百選めぐりの一環として、息子と自転車で赴いた。夫婦橋「風景」を想うと、人も車も、それぞれの想いをもってこの橋を渡っているのではないかと空想を広げてしまう。

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下流から夫婦橋を眺める

自分自身、久里浜で友達と飲み明かして帰るときヘロヘロで渡ったり、友人を自転車に乗せて下校したり、女の子を乗せたエピソードが出てこないのが、わが青春の貧しさを示唆していて悲しいが、とにかくこの橋はそもそも南北は久里浜浦賀を、東西は衣笠と港を結ぶ交通の要衝と云え、往来の彩は昔も今もあざやかである。

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アクセスは京急またはJR久里浜駅から7分ほど。あえてバスに乗って夫婦橋バス停で降りるのも乙かもしれない。割と、そう、普通の風景が広がっている。

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暴れ川だった平作川。

夫婦橋の歴史に触れたい。2021(令和3)年3月に、夫婦橋の袂に「久里浜の歴史を知ろう(夫婦橋の由来)」という看板が新たに設置されたので、そちらを参考に語りたい。蛇足だが、通常、めおとばし、と読む。ときおり、みょうとばし、としている資料もある。

 

そもそも「久里浜は江戸時代まで森崎や公郷、池田、吉井、衣笠まである大きな入り江で」、一面葦の湿地帯だった。今でも地名として残っている内川新田とは、1660年頃に砂村新左衛門という人が田畑を切り開いたことからその名がついている。

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ちょっと意外だったのは、この橋の下を粛々と流れている平作川が、かつては暴れ川として幾度もその新田を押し流して稲の実ることも能わざりし厳しさを見せていたという事実だ。架けた橋もすぐに流され、美しい娘を人柱にしたという伝説さえ遺し、手を尽くし8年。新田開発はようやく軌道に乗った。

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内川新田開発記念碑。砂村新左衛門は越前(福井)出身だったという

夫婦橋の傍らに置かれている内川新田開発記念碑の説明板によると、まず360石の成果が得られ、その後さらに255石の増加もあり、横須賀市内で最大の新田工事であったことが記されている。

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最近は夜のウォーキング(徘徊)でもよく訪れる

新田開発における夫婦橋の役割は、海水の逆流を防ぐ水門としての役割が大きかったという。川の中央に中州を作り、その上を人が行き来できるように橋を二つ架け、その姿が夫婦のようであったことから、「夫婦橋」とよばれるようになったのである。

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夫婦橋に関するうんちくは、概ね近辺の案内看板から得た即興である!

丸太で組まれ、土砂を敷き詰めた元祖夫婦橋は、現在の人道橋のあたりに架けられており、ひとつの橋の長さが約30m、幅は2.4mであったと、1825年頃の記録に残っている。その橋も、関東大震災で中州が壊れ破損。現在の夫婦橋は、1996(平成8)年に架け替えられたものである(知らなかったぁ!)。

 

「横須賀風物百選」本には、「今でも集中豪雨で被害を齎す川である」と進藤一考(俳人)氏により語られているが、私の知る限り平作川が氾濫したという話を聞いたことがない。

 

市政70周年(昭和52(1977)年)に横須賀風物百選を選定した時期以降に、氾濫への対策が進んだようで、調べたところ、1981(昭和56)年の台風24号では中流部に激甚な被害をもたらしたが、1985(昭和60)には10年間8000万円をこえる事業が完了し、以降大きな氾濫は無い。

 

平作川の歴史を紐解くのも楽しいが、この項の趣旨からは脱線する。読み手の飽きが来るとされる1500文字も超えたし、このあたりでやめておこうと思う。ひとつ、平作川について、進藤氏の語る情景は現在とは異なるようで、子供の頃からさっきまで、ずっと色気のない川だなぁと内心思っていたが、水害を防ぐための大いなる労苦の歴史を知るに至り、先人に感謝し、この項を閉めたいと思う(偉そうですみません。ありがとうございます)。

 

参考文献

「横須賀風物百選」

夫婦橋近辺にある説明看板

横須賀市のホームページ

自分の記憶

53 燈明堂跡 ~横須賀風物百選~

2021年7月。

浦賀奉行所(前の記事参照)を巡ったNextは、燈明堂へ向かう。

公共交通機関で行くなら、バス停「燈明堂入口」から徒歩10分くらいで行くことができる。

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車でのアクセスも可。しかし注意が必要。

車の場合、燈明堂至近の「燈明堂緑地駐車場」がけっこう広く、駐車料金も最初の30分が無料だったり便利だが、いかんせん道路が狭くすれ違いができない区間がほどんどだ。閑散期なら問題ないが、特に絶対やめておいた方がいいのが夏場。多くの車が海水浴に押し寄せ、押すも引くもできない完全に詰んだ状態になってしまったりする。

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自転車の我々、高みの見物。

私が子供の頃は、ほとんど知られていない浜辺だったので、徒歩数分の友達の家を拠点にして泳ぎに来て、飽きたらプレステをしに家に戻ったり、実家の近くに住む仲間たちと海パンにTシャツ姿で自転車に乗ってやってきて、海岸に落ちてる流木に火をつけて、これもそこらへんで拾った鉄板で得体のしれない貝を焼いて食べてみたりしたもんだけど、今やすっかり「人気の穴場スポット」になってしまったらしい。

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こんなに人が来るようになるとはご時世である

さて、本題の燈明堂についてだけど、「横須賀風物百選」本によると、燈明堂が在する「燈明の鼻は浦賀に残存する唯一の磯浜である」という。慶安元(1648)年に建てられた燈明堂は明治5(1872)年まで約220年以上も稼働し、4海里7.4㎞を照らし続けたが、その後忘れ去られ、明治20年代には崩壊したと伝えられている。

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横須賀風物百選が選ばれた昭和52(1977)年の時点では、燈明堂は土台の石垣を遺すのみの遺構だったため、本でも在りし日の和式灯台を偲ぶ情感のこもった味わい深い項となっている。

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時は流れている。昭和63(1988)年、燈明堂は外観復元事業に着手され、平成元(1989)年3月に竣工された。

 

今、ふと思うことがあって、父が整理したフィルム写真の取り込みデータを紐解いてみたら、やはりというか、驚いたことに私が浦賀にやってきたのは、まさに復元燈明堂竣工と同じ時期であった。

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歴史的には何でもない偶然の符号でも、自分や自分の家族がたまたまそういう時期に浦賀に引っ越して来たというのは、自分史にとってはニヤリとしてしまう面白い出来事であるといえよう。最近、人生でこういうことがあるとたまらなく可笑しいのは、やはり年を取ったからであろうか。

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そんなことにも気付かずにこの日、夏の暑さの浦賀の中で親父となった私と三歳の息子が磯浜にたたずんでいる。宇宙、ということを考えたときに、こんなちっぽけな事象はなんでもないが、だからこそ、私は宇宙などという、ほとんど無意味なほど巨大な意味不明に対し抗いうる価値があるのではないかと思ってしまったりもする。

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ところで燈明堂については、幼少時はあまり近寄らなかった。というのは、割と有名な話だけどここは江戸期において「首切り場」だったと言われていたからだ。子供心に十分不気味な呼び名であった。

 

実は浦賀奉行所としては、死刑をすることは無かったというが、例えば船乗りの罪人の処断を請け負ったらしい資料があるらしく、多くはないがやはり本当にこの地は処刑場であったことは間違いないらしい。

 

燈明堂緑地に入ってすぐ、三つの石碑が海を眺めている。左から、千代岬瘞骨志碑(ちよがさきえいこつしひ)。浦賀奉行・浅野中務少輔長祚(ながのり)が千代ケ崎台場を建設しているときに出土した人骨を供養するために建立。真ん中の明号碑(題目供養塔)と右の地蔵尊像は、共に天保11(1840)年に建立されている。受刑者の供養のためとも、海難者の供養のためとも伝えられている。

 

お昼前。朝の残る燈明堂を後にし、浦賀港をのぞみながら家に帰った。

 

参考文献

「横須賀風物百選」

燈明堂近辺にある説明看板

横須賀市のホームページ

浦賀文化第20号(燈明堂三つの石造物)

自分の記憶

半月板損傷のこと④ 手術を希望する理由とは

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2020年夏。

MRI検査によって、左膝の円板状半月板が損傷していることがわかった↓

uraganokami.hatenablog.com

自転車を漕ぐにも痛く、靴を履くのも痛い。どれくらい痛いかというとなかなか説明が難しい。確かに激痛なのに、なんだかんだほっといて生きているから、人は大したことないと思うだろうし、自分でもひょっとしたら騒ぎすぎなんじゃないかって思ったりもする。

 

一つ言えることは、子供が走って行ってしまっても、追いかけることができず、ちょっとした段差を踏んだだけでも激痛が走り膝から崩れ落ちる。不便だ。治せるなら治して、これらの生活を正常化したい。子供を走って追いかけられないと困る。

 

というわけで、秋のはじめ、整形外科クリニックの、円板状半月板を言い当てたJ先生に紹介してもらった、自宅から自転車5分の病院のF先生に(前回は会えなかったので)診てもらった。

 

「さすがですね。J先生の見立ては全く正しかったわけです。」

 

J先生を人褒めしたあと、しばしの沈黙が訪れる。

 

「それで・・・・・・」

如何しましょうか、と問われる。もちろん、手術でしか治せないなら手術をお願いしようと意気込んでいると、F先生、どうも乗り気でないらしく

 

「あまりお勧めできませんよ。今までのフィットした形を変えるわけですから」

やはりメスを入れるなりのリスクがある、という。

 

うーむ。困った。

 

「散らして凌いでいくという方法もありますよ」

 

うーむ。困った。

 

「それでもお望みであれば、やりますよ」

 

そうですか。

うーむ。本当に困った。F先生は良い先生だ。きっとそうだと、話していて思う。でも申し訳ないけど、自分の中に散らす選択肢はない。この膝を治したい。やっぱり子供と走りたいな。

 

リスク。わかる。

でも、ここで何十年後に来るかもしれない手術の不具合を恐れるより、今、子供を守り、走り、たくさんの思い出を作りたい。もし不具合が来るなら、それはそれでいい。後悔はない! ・・・と思う。

 

F先生は膝を気遣ってくれて、手術には気が乗らなかったのだろう。頼めばやってもくれたろう。でも、他をあたろうと思った。セカンドオピニオンじゃないけど、他の先生の見解も聞けるのなら聞いてみたい。あまり長引させたくも無いけど。

 

F先生は、再び整形外科クリニックのJ先生への紹介状を書いてくれた。振り出しだけど、膝のMRIのCDもゲットしたし、もう一度クリニックへ行ってみることにした。

 

41 御所ヶ崎 ~横須賀風物百選~

2021年6月。

横須賀に出戻って1ヶ月。10日後に円板状半月板損傷手術を控えた梅雨入り直前の晴れ間。3歳長男を連れて自転車で向かった(膝痛い)のは、たたら浜だった。お昼過ぎだったので、一旦ここでおやつを食べることに。

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たたら浜。子供の頃からよく遊びに来た。

随分蒸し暑くなってきたこの時期、結構多くの人が海辺で遊んでいて涼しそうだった。我々は、海遊びの用意はなかったので、息子は遊びたがっていたが近辺をお散歩することに。

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たたら浜は、砂浜だけではなく、両端にタイプの違う磯があるので、磯遊びや釣りも楽しい場所だ。

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時折、波しぶきが顔にかかるのを楽しみながらのおやつ。おいしいね、パパ~!

おやつの後に向かったのが、横須賀風物百選の「御所ヶ崎」だ。

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御所ヶ崎、旗山崎公園。

御所ヶ崎は、明治期に建設された「走水低砲台」の遺構が多く残っていて、戦後の長い間立ち入り禁止だったが、平成28年に整備され、公開されている。

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散策路はそこまで厳しい道のりでもなく、割と簡単に素晴らしい遺構を観る事ができる。砲座は27㎝加農砲4門を備え、東京湾要塞の一角を担っていた。

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小高い丘の上に出れば、東京湾を一望することができる。何度ここからゴジラが現れたことか(幼少時の夢の中ではたたら浜や観音崎から親父とゴジラ東京湾に現れる夢を幾度となく見たもんだ)。

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この堂々たる砲座は、しかし日清・日露戦争でも出番はなく、関東大震災で大きな被害が出る。

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大東亜戦争の頃には、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働していた。

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兵舎や弾薬庫も良好に残っており、内部が公開されているものもあった。

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開いてる、ちょっと入ってみようぜ。怖がる息子を連れて入ってみると、存外恐くてそそくさと逃げ出すおっさんでした。

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御所ヶ崎は、旗山崎とも呼ばれている。この地名は、古事記日本書紀にある日本武尊ヤマトタケルノミコト)の東国征伐の折の伝説に端を発している。

 

日本武尊は走水から上総国へ船で渡ろうとしたが、海が荒れ進むことができなかった。妻である弟橘媛オトタチバナヒメ)は、海神を鎮めるため海に身を投じると、海はたちまち鎮まったという。

 

地元の伝承によると、日本武尊はこの地に臨時の御所を設け、軍旗を立てたことから「御所ヶ崎」、「旗山崎」と呼ばれるようになったという。そして、この御所ヶ崎の先端である「むぐりの鼻」から、弟橘媛が侍女と共に身を投じたと伝えられている。

 

戦国期には、天正18(1590)年に入封した徳川家康によって走水に番所が置かれ、江戸末期の天保14(1843)年には異国船の侵入を防ぐべく、川越藩によって台場が築かれた。

 

走水と呼ばれるこの地域一帯は、古代から名の残る土地で、埋もれてしまっているが様々な歴史がある。日本武尊東征の道程は、古東海道とされ、吉井の安房口神社や、この走水、そして上総へ渡る道順と考えられている。

 

遊びまわった息子。

帰り道、自転車でぐっすりお昼寝でした。

 

参考文献

「横須賀風物百選」

御所ヶ崎近辺にある説明看板

横須賀市のホームページ

自分の記憶

 

52 浦賀奉行所跡 ~横須賀風物百選~

2021年7月。

浦賀奉行所跡は、浦賀に何十年も住みながら一度も(忘れただけで小学校とかの社会見学で来たりしたかも)行ったことがなかった。てっきり海沿いにある公園のことかと思っていたが、ちょっと入った所にあった。

 

京急浦賀駅から歩くと2㎞程の距離がある。久里浜駅からも遠いので、どちらかの駅から京急バスに乗って「紺屋町」で降りるといい。タイミングが合えば、千代ケ崎経由の「西浦賀四丁目」が一番近い。浦賀駅から歩けば、浦賀ドックや西叶神社、ポンポン船なんかを見る事ができるのでモノ好きな方には徒歩がおすすめ。

 

たまたま、「横須賀風物百選」本の挿絵になっていたのと同じ構図で写真を撮っていた。

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令和3年1月25日に市民文化遺産に指定された。

草ボーボーになっているが、手前の柵と奥の柵の間には石垣と側溝が遺り、往時の防衛思想をしのぶことができる。

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石組や側溝は往時のものである。

浦賀奉行所は、江戸時代の真ん中あたりに下田(静岡の伊豆の先端)から移転された。表向きは下田の湊の不便さとしているが、奉行所跡の案内板によると、江戸の平和な時代が100年以上続き、農業を中心に国内の生産力が上がり、江戸へは様々な物資が届くようになった。物資の輸送方法は、なんと98%までが海上輸送であり、自然、江戸からより近く、使い勝手の良い浦賀の湊が船の積み荷や乗組員を管理する新奉行所に選ばれた、というわけだ。

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浦賀奉行所跡。2020年には開設300年の節目を迎えた。

浦賀奉行所は、いわゆる「船改め」だけでなく、現在の税務署、裁判所、警察署、海上保安庁といった行政も行っており、開設100年頃から来航するようになった異国船から首都を防衛する最前線基地の役割をも担うようになった。

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今は更地。広大な敷地だったことがうかがえる。復元計画も。

実は、ペリー来航以前に、すでに7回も異国船が来航しており、浦賀奉行所に初めて来航したのはイギリスで、なんとペリーの45年前のことであった。そう、ペリーがいきなり大砲を持って来航したわけではないのだ。「幕末」はペリー以前からすでに始まっており、異国船が複数回にわたり来航していたという事実は、そのまま幕府滅亡の理由と「≒」になっていると言って過言ではない。

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浦賀奉行所表門のお堀に架けられていた石橋。

往時の正面玄関に当たる表門は、役宅より少し北に寄っている。また、町屋から役宅に入る部分も鍵の手に曲がっている(今度写真撮りに行って追加しようかな)。敵がまっすぐ攻め寄せられず、勢いを削ぐのが目的の、基本的な防衛の仕掛けである。

 

「横須賀風物百選」本によると、表門の石橋は、14枚の伊豆石が敷かれているという。横須賀市奉行所紹介ページでは2019年時点で4~5枚とされている。私が現地で目視した感じ、9枚くらいはありそうだけど全部が当時のものかは(素人なので)判別できなかった。

 

3歳息子と自転車で奉行所跡をうろうろしてみる。立派な奉行所跡の説明看板をはじめ、浦賀を代表する人物・中島三郎助の説明版や先の石橋についての案内板など、色々と勉強になった。一周してみようとチャリンコ走らせたが、途中から民家の並びになってしまい断念した。

 

参考文献

「横須賀風物百選」

浦賀奉行所跡近辺にある説明看板

横須賀市のホームページ

自分の記憶

1 鷹取山と磨崖仏 ~横須賀風物百選~

2021年7月。円板状半月板の損傷手術からおよそ一ヶ月、かねてからチャレンジしたいと思っていた「横須賀風物百選」の制覇に乗り出した。

 

どこから行こうか、またすでに行った場所はどうすんべかということも色々考えたが、ともかく、1番から行こうと決めた。番号が振ってあるわけではないが、「横須賀風物百選」の本に載っている順番(多分北から順番とかになってる)の一番初め、

 

鷹取山と磨崖仏

へ足を運ぶ。ちょっとしたルールを作った。この旅は息子と一緒に巡ってみることにした。息子は今3歳と8ヶ月。終わるのはいつになることやら。

 

さて、吉井に住む私。電動アシスト自転車に子供と二人乗り。浦賀駅の駐輪場に置き、浦賀駅から京急に乗る。追浜までそう遠くない。

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京急 追浜駅 特急やエアポート急行が停まる。

鷹取山へは、追浜駅からだと30分ほどの道程となる。私たちはバスに乗って向かうことにした。

 

京急バス 湘南たかとり団地循環 たかとり小学校 下車。

 

息子、バス待ちで「うんちー!」と慌てふためくが、我慢できるというので賭けだったけどバスに乗り込んだ。

 

たかとり小学校へは、10分ほどで到着。もっとかかった気がしたが、とにかく到着だ。

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バス停から5分くらいで鷹取山公園の入口に着いた。7月の半ば、真夏ではないが気温は最高32℃まで上がった。緩やかな坂道は、木漏れ日が揺れ、涼やかである。

f:id:uraganokami:20210824214853j:plain手術した膝を気遣いながら登る。一歩いっぽ、旅を思い出すように歩く。術後に本格的に動くのは仕事以外では初めてだった。


だんだん、景色がよくなってくる。最後まで登った景観を想像して楽しくなってきた。

f:id:uraganokami:20210824214859j:plainランドマークタワーもよく見える。その左側を指さして、あのあたりに住んでいたんだよ、と、息子に教える。あまり実感がわかないようだ。

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ここで息子のうんちタイム。舗装された坂を登り切った所におトイレがあった。間に合って本当に良かった。初の風物百選めぐりでいきなりのピンチだった。

 

ちなみに鷹取山へは、神武寺方面から登っていくルートもある。今回は膝も息子も心配なので、そもそもそっちは横須賀じゃないな、と言い訳して楽そうな方を選んだのである。

 

おトイレのある景色の良い広場からは、磨崖仏への道と展望台への道に分かれていた。私たちは、まず展望台を目指した。

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歩いてみて驚いた。こんな岩山がいつも通り過ぎる追浜にあったなんて知らなかった。岩には穴がボツボツ空いていて、戦のあとのアンコールワットに迷い込んだような気がしなくもなくもない。

f:id:uraganokami:20210824220441j:plain基本、息子がドンドン行く。時折こちらを振り返っては、カメラを構える私に、斜に構えたピースサインを送ってくる。

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岩に足を取られながら息子は木道の階段に到達した。さらにズンズン歩いていく。

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切通のような道をさらに行く。「ちょっと怖いみたいだねぇ」

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「あ、何か見えてきたね」

3歳児と左膝不自由なおっさんの2人で、おトイレの広場から10分ほどで展望台まで来た。入口からだと、うんち含めても25分分だ。
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見晴らしは相当良い。眼下に横浜横須賀道路が見えた。横須賀人なら、横横(ヨコヨコ)、というのが乙だ。15年以上前、ELTEvery Little Thing)が横須賀芸術劇場でライブをしたのを観に行った時、ギターの伊藤一朗さんが横須賀出身だということで横須賀トークをしてくれたのをふと思い出した。

 

横須賀の人しか知ってなさそうな言葉を言って、持田香織さんがわからなくてスネる、といった感じで「ヨコヨコ!」「?なにそれ?」「ヨコヨコって、気持ちいいよね!」「(客)喝采」「もうわかんないよ!知らない!」みたいな。

f:id:uraganokami:20210824222628j:plain江の島と富士山の頭がちょっと見えた。江の島どこだって?

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ちょっと残念!

高校の頃の友達に鷹取出身の奴がいたけど、あの時鷹取山を馬鹿にしたこと謝りたい。

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鷹取山の由来は、500年ほど昔、太田道灌という、徳川家康以前にこの地を治めた人が、鷹狩をしたとか、単に鷹が多いからとか、高いところという意味の「タカットー」という語があり、それが鷹取となったなど、様々な言われがある。

柔らかく加工しやすい鷹取山の岩は「鷹取石」として広く建築土木の材料として用いられ、岩が切り立っているこの独特の奇観は、その岩を切り出した際の名残なのだという。その様相が群馬の妙義山に似ていることから、鷹取山は湘南妙義と呼ばれたりもした。

そういえば横須賀市は、小栗上野介のお墓がある群馬の倉渕村(現在は高崎市と合併して倉渕町)とかつて友好都市として提携していた。松井田の妙義山は倉渕からもほど近い。

 

展望台で息子はお茶を飲み、おやつを食べ(お昼ご飯の時間なんだけど…)、元来た道を戻る。戻りもなかなかいい風景だ。

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神武寺方面から来たらしい人たちは、割と本格的なトレッキングの服装をしている。

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今度は磨崖仏を目指す。展望台方面は明るかったが、磨崖仏への道は鬱蒼と茂った森の中で、ちょっとした秘境感を味わえる。

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切り立った岩のボコボコ穴は登山練習のために穿たれたハーケンの跡ということだ。

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そして、割と突然に、磨崖仏が現れる。息子ちょっと引く。ちょっと仏さまの方に行って!写真撮ってあげる。と言っても怖いらしく行かない。三脚を出して2人でチーズ!

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左膝に不安があり立ち方が微妙なジョジョみたくなっている

それにしてもここはどこだ。チベットの山奥か?いや、追浜の鷹取山だ。

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磨崖仏は、弥勒菩薩尊像で、昭和40年頃に横須賀市在住の藤島茂(1914~1990)氏が制作したものである。

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案内看板も苔むして文化財レベルである

磨崖仏を眺めながら少しの休息をとり、横からその先へ進む。このまま公園内から出て、バス停に戻ることができる。

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鷹取山と磨崖仏。

横須賀風物百選の1番目は、鷹取山という、人間にとって手に届きやすく、その恩恵をふんだんに受けた稀有な山だった。奇岩奇勝の由来は徹頭徹尾、人にあり、それも明治から昭和にかけての時代で作り上げられた、一種の彫刻品と言える。

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ハーケンの跡さえ神秘。昭和の彫刻の山は、平成、令和の時代を経て、苔むし草木はさらに茂り、その神秘性に拍車をかけている。

 

こうして

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横須賀風物百選めぐりは始まったのである。
膝の疲労感よ。

 

※参考文献

「横須賀風物百選」

鷹取山にある説明看板

横須賀市のホームページ